まずは落合宿を紹介します!
歌川広重画 木曽街道69次の内 落合宿
ー 落合宿の概要 -
落合宿は東西両入口、東から横町・上町・中町・下町まで3町35間(390m)道幅2~3間(4~5m)両脇に町並みが続き、町のほぼ真ん中辺りに本陣、道を挟んで脇本陣があった。
道のほぼ真ん中辺には上町から下町まで用水が流れており、水路の上には常夜灯が建てられていたという。
宿場は、文化元年(1804)に44戸、同12年(1815)にも55戸を焼失する二度の大火にあい、宿場の重荷に加え、火災後の苦しい生活の様子が濃陽徇弘紀に留めれている。
村は、木曽福島の山村家、美濃久々利の千村家の二代官の均等支配地であった。
村高は、太閤剣480石2斗1升・庄屋2・問屋2(代官の下に1づつ)
天保の頃(1830~1843)の宿場は、戸数75戸 人口370人 旅籠屋14だった
升形に置かれた常夜燈
落合宿には、4っの常夜燈が、文化年間の大火前後に建てられ、毎夕灯を点けお祈りしていたという。
明治13年(1880)の道路普請により、この一基を残し他の常夜灯はお伽藍様や善昌寺に移転
その後、令和3年(2021)常夜灯3基はすべて宿内に戻った。
(落合宿上町)
文化10年(1813)建立
令和3年(2021)上田家横に移転
(上町と中町の中間)
文化12年(1815)建立
令和3年(2021)落合町公園に移転
(落合下町)
慶応3年(1867)建立
令和3年(2021)本陣横に移転
(落合中町)
升形とは
ここは上町のます升形、道は直角に曲がり横町へと向かう
升形は宿内の見通しを遮るために、入口辺りの道を直角に曲げて死角を避けたものをいう。落合宿には東西の両口にある。
門冠の松
門冠の松の左に現在善昌寺がある。この寺は以前、松を潜った所にお寺があった 中山道はここから右に折れ中津川宿へと向かう。ここも升形になっている。(落合宿下町)
この寺は喜翁山善昌寺といい本尊は釈迦牟尼、境内には宿内にあった常夜灯(文化10年ー1813)が移転し建てられている。 門前にある松を門冠の松、路上の松とも呼んでいる。
中央山高福寺の桜
宿場通り中町から上町の間に南に折れる道がある。50m程進むと、阿弥陀如来を本尊に祀る浄土宗の寺で中央山高福寺という古い時代から創建されたお寺がある。
花が咲く時期にはライトアップされた桜も一段と迫力ある姿に変貌、その妖艶な姿は見事である。
また、境内には徳本上人の名号碑のほか仏像が沢山祀られており境内に続く墓地には、俳人崇左坊の墓もある。
詳しくは中央山高福寺のHPにお立ち寄りください
泉屋(旧鈴木家)
現在はありませんが・・
鈴木家は屋号を泉屋と称し、落合宿本陣の隣で酒造業を営みながら宿年寄役を務めてきた家です。 泉屋は島崎藤村の代表作『夜明け前』に「稲葉屋」として登場し、作中に建物の佇まいが次のように描かれている。
稲葉屋では囲炉裏(いろりばた)に続いて畳の敷いてあるところも広い。そこは応接間のかわりでもあり、奥座敷へ通るものが待ち合わせる場所でもある。(中略)やがて半蔵は平兵衛と共に案内され行ったところは、二間続きの奥まった屋敷だ。次の部屋の方の片隅によせて故人蘭渓の筆になった絵屏風なぞが立て廻してある。
(島崎藤村『夜明け前』第二部第五章三より)
鈴木家六代目である鈴木利左衛門清茂は、俳号を崇左坊(すうさぼう)といい、芭蕉俳句の流れをくむ美濃派の俳諧の崇匠として幕末に活躍した。また、鈴木家九代目である鈴木利左衛門弘は、明治5年(1872)に25歳で落合村の初代戸長を務めるなど学識を備えた人望家です。
また弘道は『夜明け前』の執筆にあたり藤村から直接取材を受け、作中に「林勝重」として描かれている。
脇本陣
本陣の合い向かいに脇本陣があったが、今は脇本陣跡の標識が立っている。
卯建(うだつ)
隣家と境の壁を屋根の上まで伸ばし、その壁の上に屋根を付けたもので防火壁の役目をする。
このような卯建のある家は本陣隣の家のみになってしまった。
格子の家も数少なくなった。
格子の家は数少なくなり、数える程になってしまった。
(昔の面影を一部忍ぶことができる)
ー 落合宿の現在 -
● 平成22年(2011)2月に、落合宿から「新茶屋の一里塚」までの2.5Kmが「国の史跡」に指定された。
この間には、升形・本陣・常夜灯・下桁橋・十曲峠・医王寺・石畳・一里塚などの史跡がある。
● 中津川市が平成26年11月、落合宿本陣を井口家より購入する。
平成24年頃まで、15代目ご当主である井口さんが住んでいました。
● 中津川市は、中山道落合宿本陣整備計画策定委員会で復元に向けて検討中。
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